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私達は形而上に在る
形而上学とは、存在の奥にある認知不可の領域を取り扱う学である。
私は、世界に存在する事物は、何か別のより偉大な目的によって存在していると漠然と思っていた。
突拍子もない考えだが、形而上学という学問として、昔から人々に営まれてきたものである。
その答えはいまだに出ていない。答えなどなく科学が未発達の時代に産まれた誤った学問である、と廃れてさえある。
しかし、今日、私は一つの答えを提示したい。
人間と他の存在の違いは、クオリアがあることである。クオリアとは、私達が物を見る時に得られる、その物の映像でありイメージであり、その物を見ているという実感を与えてくれるものである。
人間の目もカメラも共に外界の映像を映し出すことが出来るが、人間にはクオリアがあり、カメラにはクオリアが無いと言う違いがある。
このクオリアは私達に何を与えているのか。それは時間の流れであり、世界との繋がりである。つまり「今」である。
私達は今を与えられた存在であり、そして世界の存在らは私達が存在しなければ今を存在することが出来ない。
今が無ければ、世界には過去も未来も無い。ただ結果のみが与えらていることになる。
その世界の存在らは、存在であって存在者では無いだろう。世界全てが一体化しており、決まりきった運命を辿る。これは形而上学的世界と言っていい。
私達の存在は、そんな形而上学的世界に今を与え、存在を存在者にし、自由を産み出し、未来を創り上げていく存在である。